感覚異常がもたらす責任的行動への影響について

幻聴や妄想がひどかった時のことはすごく昔のことではないけれど、不快な症状だからなのか、僕の物覚えが悪いせいなのか、あまり気に止めることがない。

だいたい幻聴とか妄想とかいうけれど、統合失調症に罹患しているこちらとしては物事の見え方が不快な状態、という感じである。世の中が落ち着きの悪い状態で怖いのだからこれは仕方がなかったりもする。

ただ、幻聴や妄想が解けているという状態においては、幻聴だったねとか妄想だったねなどと言われてもあまりそれで、落ち込みはするけれど自分自身の行動に責任が取れないと思われることは心外に感じることがある。

しかしまた、過去に起こしたどうしようもないことについては、つまり自分の起こした、失敗した行動についてということなのだけれど、それについては僕の個人的な言動において、症状のせいにして処理してしまっていることが多い。

つまり大いに勝手な話で申し訳ないのだけれど僕はそんな風に都合よく生きているのだろう。

幻聴や妄想が僕個人的な感情(というか感覚)であることはだいたいにおいて僕自身にもすぐにわかる。幻聴や妄想が感覚の異常ということを言われて、ああそうだな、なるほどなと腑に落ちる気もする。

話はちょっとずれるけれど、社会において生きていくには自分の行動や言葉に責任を取らなければならない場面が必ずある。自分自身の存在が責任のような、なんといったらいいのか、取り敢えず責任的行動を取らなければならない。

僕の場合、責任的行動に能わないことも多々あったりする。それはごく日常的なレベルから、つまり、この人はしっかりしているかどうか、というレベルからの始まりだったりもする。

幻聴や妄想は責任的行動をとるための自信を奪う側面があるとおもう。

社会的責任のとれることをしたいけれど、症状のせいで感覚が被害妄想的だったり、そんな状態に陥っていたことについてあとから自覚し自信をなくす。そんな状態が繰り返されているような気もする。

結局そんな苦しみの世界を生きているのかなと思ってみたりもする。
こうして書いたけれど今日はあまりうまくは考えられなかったような気がする。
まあぼちぼち頑張ります。